飾りの虚と実
2008年 12月 14日
飾りつけること。
飾りを落とすこと。
芸術の世界では、
この両方が、
当たり前のように同居している。
絢爛たる衣装に彩られた能舞台では、
ただ竹を切って穴をあけただけの笛が吹かれている。
金銀蒔絵をふんだんに施した茶道具は、
何の飾りもない、イグサと柿の木でつくられた茶室で使われる。
虚飾、という言葉がある。
飾りが虚飾になるのは、どんなときなのだろう。
全ての飾りは虚飾なのだろうか。
「実」たる部分は飾りとは無縁にあるのだろうか?
確かに、そんな気もする。
飾りを落とした美のもつ、圧倒的な迫力。
それに比べたら、どれだけ豪華に飾ったところで、
空虚であることを誇示しているに過ぎないようにも、
思える。
だが、それだけでもあるまい、とも思う。
実のある飾り、というのも、
確かにあるのではないか、と。
隅々まで装飾に覆われた、
イスラム教やキリスト教の寺院が、
まるっきり虚飾であると言い切れるだろうか。
花嫁のまとう友禅の打ち掛けに、
実がないといえるだろうか。
飾りに込められた、願いの重さがあるように、
私には感じられる。
実質をひきたてるための装飾なのか、
実質のなさをごまかすための装飾なのか。
今ある、この「飾り」は、どちらだろうか。
私は、目くらましをしようとしてはいないだろうか。
故山口五郎師の巣鶴鈴慕を聞きながら考えた。
by albart29 | 2008-12-14 18:07 | まじめな考え事


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